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最近、「教育とは何の為にあるのか」ということを考えています。
今思うのは、「社会でより良く生きる力を身に付けるため」だと考えています。
教育の専門家ではないので、完全な答えを出すことは出来ないかもしれません。
ですが、教育の専門家に果たして答えが出せるのか、とも感じています。
なので、これから古今東西問わず、複数の知識を得ながら、深めていこうと思っています。
今日は福沢諭吉の「学問のすすめ」を元に、今の考えを書いてみようと思います。
(参考:三笠書房「学問のすすめ」)
学問のすすめの初編は「学問の目的 天は人の上に人を造らず」として、明治4年2月に出版されました。
福沢諭吉が現代に生きていたら、昔とは違う啓蒙をしていたと思いますので、少し時代背景を補足します。
時代としては、明治維新が起こり、近代国家へと向かっていく時代でした。欧米列強から日本を守りながら、西洋の文化や技術を取り入れていく時代に、大きな影響を与えた思想家が福沢諭吉でした。
今は明治維新のように、大きく時代が変わる時だと思います。
福沢諭吉が当時どんな風に変えようとしたのかは参考になり、教育やその目的には普遍の本質があると思いますので、そこを探りたいと思います。
要旨を抽出すると、学問のすすめにはこのようなことが書かれています。
■賢人と愚人の違いは、学ぶか学ばないかによって決まる。
■だから、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」だと言える。
■学問とは、ただ難しい文字を知ることではない。学ぶべき学問は、現実的でない学問は二の次にして、まずやらねばならぬのは、日常業務に必要な実用の学問である。
■たとえば、文字、手紙の文章、帳簿の付け方、そろばんの練習、はかりの計量法などだ。まだある。地理学、物理学、歴史、経済学(家計や国家財政のあり方)、修身学(倫理学)。
■どの科目でも事実を押さえ、確かめ、その結果に立ち、事物の基本的な筋道を知るべきだ。それが日常生活に役立つのである。これは人間だれもが学ぶべき実学であり、身分・貧富の差もなく、すべての人間が身に付けて当然の学問なのである。
■この学問が身についてこそ、それぞれの立場で自分の務めをはたし、家の仕事を営むことができるのである。それが「一身の独立」である。ひいては家の独立であり、国家の独立につながるのである。
■人の一身も一国も、天の道理に基づく自由・独立がたてまえなのである。それをもし妨げる者がいたら、世界を敵にまわしても恐れる必要はない。まして政府の役人など恐れるに足りない。
■私が学問をすすめる目的はただ一つ、国の平和を守るためである。そのためには人民一人一人が自分の行いを正し、学問に志し知識を広め、各自の立場に応じて才能と人格を磨くことが、なによりも大事なのである。
■いっぽう政府は、政治の施策をわかりやすく国民に知らせることと、その政策が国民に平穏な生活をもたらすことをこそ、目的とすべきである。私のすすめる学問は、まさにこの一点をのみ目指しているのである。
つまり、「国の平和と人の平穏な生活のためには、実学といえる学問が大事である」ということです。
そして、実学とは、日常生活に役立つもので、天の道理、物事の筋道を知ることなのです。
これは普遍のものであると思います。
福沢諭吉によって啓蒙された学問の道は、今どうなっているでしょうか。
受験のための学問になっていないでしょうか。
記憶してテストで良い点数を取ることにばかり目がいっていないでしょうか。
今こそ、教育の根本に立ち還り、教育は何の為にあるのかを見極め、これからの時代に必要なものに発展させていくべきです。
私は「国の平和と人の平穏な生活」とは、人が最も幸せになることが出来やすい状態だと考えています。
要するに目的は人の幸せです。
学問はそのためにある。そのためにならない学問は必要がありません。
学歴でレッテルを貼り、それだけで人生が決まってしまうと錯覚させてしまうような教育は間違っています。
(これまでの工業化による経済成長時代には正しかったかもしれません。)
実学を子どもたちに身に付けさせてあげなければならないと考えると、
それぞれの科目をより高度に学びすぎる必要はありませんし(その道に進む人は別です)、今の時代では、才能と人格を磨くことにより重点を置く必要があると思います。
それは小中学校で十分にできることです。
みんなが大学に行く必要はありませんし、大学にいかなくてもよい社会であれば、高校は受験のために時間を費やす必要もありませんから、それぞれの才能を伸ばすことに特化して学べるはずです。
(才能とはスポーツや芸術家だけのものではありません。すべての人にそれぞれに合った才能と、天分と言える役割があります。)
そこから、大学に行って学問を究める人もいれば、仕事をして実学を活かしてもいいし、社会奉仕する活動をして人格を磨いてもいい。農業をして食糧を作る経験を積んでもいいし、文化芸術に時間を投じてもいい。
そうしたらまた、小中学校のあり方も変わってくると思います。
でも、大学に行くのって各家庭などそれぞれが選択していることだから、変えられることじゃないんじゃないの?って思うかもしれません。
変えるためには、教育行政を変える必要があります。
(一人一人の意識と共に)
一点だけ挙げるとすれば、私は
学習指導要領を廃止することだと思います。
学習指導要領とは、文部科学省の説明ではこうなっています。
全国のどの地域で教育を受けても、一定の水準の教育を受けられるようにするため、文部科学省では、学校教育法等に基づき、各学校で教育課程(カリキュラム)を編成する際の基準を定めています。これを「学習指導要領」といいます。
「学習指導要領」では、小学校、中学校、高等学校等ごとに、それぞれの教科等の目標や大まかな教育内容を定めています。また、これとは別に、学校教育法施行規則で、例えば小・中学校の教科等の年間の標準授業時数等が定められています。 各学校では、この「学習指導要領」や年間の標準授業時数等を踏まえ、地域や学校の実態に応じて、教育課程(カリキュラム)を編成しています。
(文部科学省HPより)
文部科学省が全国一律に、この授業をこれだけやりなさい、と規定しているために、コロナで休校していた今の小中学校では、夏休みを減らして授業をする、ということになるのです。
今、何が何でも授業を決められた時間数、実施することが重要でしょうか。
子ども達が休校で失ったものは何でしょうか。
授業時間でしょうか。
それとも先生や友達と時間を過ごしながら身に付ける社会性や人格形成の成長でしょうか。
そして、本当に文科省から全国一律にこんな子どもをこんな授業で育てなさいと、決められる必要があるのでしょうか。
それぞれの地域で、こんな風に子ども達を育てるんだ、と情熱を持って教育を考える方がいいのではないかと思います。
ですが、私も昔は、そんなことをしたら、偏った教育をする地域が出たり、地域間格差が広がってしまうんじゃないだろうかと考えていました。
でもおそらく、民主主義が保障されていて、ITで情報が行きわたっている現代社会と、日本人の性格では、そんなに差は生まれません。
各地域で独自の取り組みをしながら、お互いに参考にし合い、より高め合っていくことになるでしょう。
明治維新の時とは違い、成熟した社会ですから、今度は地域に任せていく高度な国家を形成することが出来ると思っています。
もう少し言えば、個人の多様な力に、より比重を置き、自立した中で補完性原理を根本とした社会の形を作り上げていくことが良いと考えています。
子どもの成長には寄り添う大人が絶対的に必要です。子どもに寄り添う大人の量と質はこれまでの経済成長時代に圧倒的に減らしてきてしまいました。
それはまた別の機会に書きたいと思います。
また、教育に関しては、今回は福沢諭吉を元に書きましたが、これからニュートラルな思考で、様々な知見を得ながら、教育のあるべき形を考えていきたいと思います。
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